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大阪家庭裁判所 平成6年(少)2890号 決定

少年 D・J(昭51.1.24生)

主文

この事件について平成6年8月3日にした審判開始決定を取り消す。

この事件については、審判を開始しない。

理由

1  本件送致事実の要旨は、「少年は、平成6年7月2日午後5時32分ごろ、大阪市西成区○○×丁目×番××号大阪市営地下鉄御堂筋線○○駅下り線ホームにおいて、通行中のA子(当時65年)に対し、殺意をもって、その背中を手で押して、同女を同ホーム軌道敷地内に転落させ、おりから同軌道を進行してきた御堂筋線○○駅発○○駅行き電車に同女を轢かせ、即時同所において、同女を脳幹断裂により即死させて殺害した。」というものである。

少年が上記日時場所において、上記被害者の背中を押し、その結果同人を地下鉄軌道内に転落させ、電車に轢かれて死亡するに至らせたことは、記録上明らかに認めることができる。しかし、後記のとおり少年は精神の発達が著しく遅れ、精神年齢は4、5歳に留まっているとみられ、被害者に対し積極的に危害を加える意思をもって、上記の行為に出たと断定することは困難である。

少年は言葉が不自由で、日常生活の基本的な単語は理解しているが、発音が不明瞭で聴き取りにくく、自分の意思を表現したり、他人の言葉を理解したりすることができる範囲は狭く、「ただ今」、「お休み」などという言葉を何度も繰り返し、ときには同じ言葉をいつまでも言い続けることがある。また自閉的で、こだわりが強く、一日中洗濯機を動かして水が回るのを見続けたりし、決まった行動を判で押したように繰り返さなければ気が済まない性分で、これを妨げられると興奮し易くなる。もっとも少年には粗暴な傾向はほとんどみられず、本件の行為については少年の表現力の乏しさと不安の強さのため、どのような心理から被害者に力を加えるに至ったのか、知ることができないが、少年の日常の行動からは、ほとんど予想し難いことであったということができる。

少年の学力は、ひらがなの読み書きや一桁の数の計算ができる程度である。

平成3年3月、○○中学校卒業後、大阪府立○○養護学校に入学し、同6年3月に卒業した後、同年4月から精神薄弱者授産施設「豊中市立○△」に自宅から通い、木工Iのクラスで、杉板を磨く作業をしていた。

少年の社会適応能力は低く、決まった目的地へ交通機関を利用して通うこと、時計を見て時刻を知ること、日常の小さな買い物をすること、自宅に電話をかけることなどはできるが、本件の被害者を死亡させた自己の行為の重大性についての認識は乏しく、その結果、自由を拘束されたことは理解でき、また被害者を線路に転落させた経過については防衛的な構えを示して語りたがらないが、「もうしない、もうしない」と繰り返して、「家に帰して」としきりに訴える外には、罪の意識をうかがわせる態度はみられず、人の死が死者自身や、その周囲にもたらす苦痛の深刻さを理解する能力が欠けているとみられる。

少年の父母は、かねてから熱意をもって少年の監護に当たってきたもので、本件の発生により深刻な打撃を受け、責任を痛感し、被害者遺族との示談に誠意をもって対応し、幸いに遺族の理解を得て示談成立に至っている。その後、少年の観護措置が取り消され、少年が自宅に帰ってからは、両親が協力してその監督に当たり、少年は再び「○△」に通い、規則的な生活を送っている。上記のように、少年には正常な罪障感が欠けているが、本件で身柄拘束を受けたことによる脅えは深刻で、外で人に体が当たったりする都度、「また捕まるの」と不安をあらわにするほどである。

以上のような少年の精神状態からすれば、少年には是非善悪をわきまえ、その判断に従って行動する能力はなく、本件は心神喪失者の行為といわざるを得ないから、刑事上は罪とならないことになる。このような場合、多くの審判例においては保護処分を加える前提である非行そのものが認められないとされているが、当裁判所は、刑法上の心神喪失者といえども、必ずしも保護処分の対象から除くべきではなく、少年の社会適応を助け、危険な行動の再発を防ぐために、保護処分の効用が認められ、かつ外に適切な保護の手段が期待できない場合には、医療少年院送致などの処分を選択できるものと解する。

しかし、本件の場合、上記のような少年の資質、能力、環境に鑑みると、少年の社会適応を促し、本件のような不幸な事態の再発を防ぐために講じ得る手段が限られていることはいうまでもなく、その反面、家庭における少年の保護環境は望み得る限り整っているといえる。

少年を家庭や一般社会から隔離された施設に強制的に収容して、矯正教育を受けさせることは、たとえ医療少年院において個別的な処遇に重点を置くものであっても、少年の能力に適せず、却って少年を不安、混乱に陥れ、社会適応を阻害する結果になることが憂慮され、その他の保護処分も、少年の潜在的な能力を向上させるために、保護者の監護を補う効果があるとは考えられない。

なお少年の保護者は、少年が本件のような不測の行動を繰り返さないよう、少年から目を離さない努力を続けており、少年自身も本件で観護措置を受けたことを深刻な体験として記憶している現状においては、少年が再び他入に危害を及ぼす虞は、ほとんどないと考えられる。

もっとも保護者の監護能力にも当然限度があり、また少年の社会性を発達させるためには、少年を家庭以外の専門的な福祉施設に委託して、親子密着が生じない環境で、親のみに頼らず生活する経験をさせることが望ましいと考えられるのに、現状では保護者はこれと異なる意向を持っているようであるが、そのような方法も保護者の意に反する限り有益な結果を生じるとは期待できず、何らかの保護処分を相当とする理由にはならない。

結局、少年は保護に適しないというべきであり、かつ少年は審判を受けることの意味もほとんど理解していないと認められ、審判を行うことの教育的効果は期待できず、却って少年の不安を強めることが懸念されるので、本件について少年を審判に付するのは相当でない。

よって少年審判規則24条の3により、先にした審判開始決定を取り消し、少年法19条1項により、主文のとおり決定する。

(裁判官 山田眞也)

〔参考1〕 少年調査票(A)〈省略〉

参考2 意見書〈省略〉

〔参考3〕 鑑別結果通知書〈省略〉

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